2026/06/03 14:17
小鳥書房『コレクターズパレード』という本を読み終えた。100人が自身のコレクションと部屋を語る写真付きエッセイ集である。
私も、小学校高学年のころからこつこつと、当時100円だった食玩「ポケモンキッズ」に入っていたポケモンの指人形を集めていた。赤緑の頃はまだ151匹しかいなかったので、これを全部集めてやろうと少ないお小遣いをやりくりして買い続け、ついには全てを集めきり、現実世界でポケモン図鑑をコンプリートするポケモンマスターになったのであった。

「ポケモンキッズ」は、発売された当初のシリーズでは、中にどのポケモンが入っているか分からない売り方をしていた。そのため、お目当てのポケモンに出合うまで何度も買い続ける羽目になった。同じ指人形を複数持っているのは、そういう歴史を知っている証拠である。ちなみに、死に別れの母親の遺骨を頭に被っているという悲しい過去をもつポケモン「カラカラ」が、最後の最後まで手に入らなかったのをよく覚えている。営業しているのかしていないのかよく分からない、学区の端にあった薄暗いヤマザキショップの中で買った黄色いポケモンキッズの箱からカラカラが飛び出してきたときの感動は、30年が経った今でも忘れない。かつてその店があった場所の前を通り過ぎる度に、そのときの興奮を思い出してしまう。
大人になり、妻と二人で暮らすことになった頃には、指人形への情熱など残っていなかった。でも、ある日、実家の押し入れの中にしまわれていた小さな指人形を久しぶりに見つけたときには思わず声が出た。一方で、大人になっても「ポケモンの指人形」を大切にしている自分が、なんだかちょっと恥ずかしかった。

名古屋市指定の小さな可燃ごみ袋の中で雑に保管されていた151体の人形を、そのまま捨ててしまおうと思った。でも、念のため、かつてのブタコヤの中で共にこの指人形で遊んだ古くからの友人に、「これ、もう捨てようと思うんだけど、いいよな」と相談した。すると、「それはお前の全てだから捨ててはいかん」と怒られた。
きっと、そう言ってほしかったから連絡をしたのだろう。成人をとうの昔に迎えた男が「ポケモンの指人形」を大切にしているという状況を、誰かに認めてほしかったのだろう。これは、「ポケモンの指人形」ではあるが、ただの「ポケモンの指人形」ではないのだ。小さかった私の、151体の分身なのだ。
何故集めているのかという明確な理由などない。集めろと言われたからでもない。「なんとなくそう思ったから」「面白かったから」という、小学校の学習プリントに書いたらきっと△評価をつけられてしまうような、そんな平ぺったい動機しかない。

この『コレクターズパレード』の中にも、さまざまな想いでコレクションをしている人たちが登場する。きっと、それぞれがそれぞれにとって、「物」以上のなにかなのだと思う。コレクションにかけた時間は人生そのものである。この本には「物」の形をした、100人の人生が並んでいる。
もし私が今も学級担任だったら、この本は学級文庫に並べたい一冊だなと思った。多種多様な数十人がぎゅうぎゅう詰めになって一日を過ごす「教室」という特殊な空間では、殺風景であること、清潔であること、綺麗に整頓されていること、丁寧であること、効率的であることが、どうしても大切にされてしまう。
学級懇談会で学級担任は言う。「お子さまの机の中をどうぞご確認ください」と。もし、席の主が、こっそり拾ったセミの抜け殻をお道具箱にコレクションしていたらどうなるだろうか。折れてしまった鉛筆の芯の先を蓄えていたらどうだろうか。これらは全て「指導」の対象になりうるであろう。
学校が悪いと言いたいのではない。学校はそういう場なのである。整頓できること、物の管理ができること。これはこれで、大切な力である。学校はそんな力の成長にまで責任をもってくれる。ただ、「何かを集めることの良さを味わう」ことは、学校の管轄外である。だからきっとこの本は、子どもや、かつて子どもだった人の、そんな心にも寄り添ってくれる一冊なのではないかと思ったのだ。

私のポケモンの指人形は、三十年の時を経て、今は我が子のおもちゃになっている。一日三十分間だけ、Switch2のゲーム「ぽこ あ ポケモン」で遊んだ後は、ポケモンの指人形たちの出番だ。
捨てなくてよかった。こうして世代を越えて、物も人生も繋がっていく。
